こぼれおちるもの

日常の徒然、時々スピリチュアル

母との再会

さて、眠いけど行きますか。

そしてほんと申し訳ないというか本を読まなくなったら文章力が著しく落ちてしまって

読みづらい事も多々あるかと思いますがどうかお許し下さい。

本は元々好きで恐らく3000冊位は読んでいるし、読む時は1日10冊位を3週間連続とか過集中して読んでいたりしたのですが、本を読むよりも現実世界が面白くなってしまったので今では全く読まないのです。

 

 

で、中学生になると学年の人数が16倍になりました。

交流する人数が増えた分、気の合う人も増えるので割と活発に過ごしていました。

そして何故か悩み事を聞くことや、ケンカの仲裁を頼まれては解決に導いたりといった事を多くしていた様に思います。

初めて彼氏が出来たのも中学の頃でした。

ただひとつショッキングな出来事としては母親との再会がありました。

水泳の部活中、プールサイドに何か浮いた変な人がいるなと思っていたら、それが実の母親でした。

ちょうど父と妹が迎えに来ていてみんな同時の再会になったのですが、嬉しい気持ちだけでは終わらなかったです。

何故なら私の心の中にいる母親と全く違っていたから。

でも現実の力って本当に腹立たしい位強く、私が作っていた心の王国は見る見るうちに崩壊して行きました。

会いたいと願っていた本当の母親を受け入れたいと思ってしまった。

そして受け入れて欲しいと。

思春期でもあることが加わり、暫くしてから不眠に悩まされることになりました。

眠ろうと横たわっていると身体がゆらゆら揺れて身体から飛びだしてしまうような感覚があったり、金縛りや体中を何かが這いまわる気持ち悪さがずっと続いたのです。

当時の母親は既に精神に異常をきたしていたので、思うあまりにそれを貰っちゃったのかなと思う事もありました。

一緒に暮らしていなくても私は母親に良く似ています。だから波長も似ているのでしょう。

そこから痛みで自分を正気に戻し滲む血の色で生きている事を確認するようにリストカットが始まりました。

もう心の中には逃げ場がなかったからです。そして誰にも相談出来なかった。

それからは時々母と会う事はあったけど、母の妄想や祖母や父の悪口を延々聞くことか多かったです。

隣の人が炊飯器のご飯盗んだとか水道に毒を入れたとか監視しているとか色々です。

母の気が済むまで聞いていました。

 

 

しばらくして少し冷静になった私は図書館にある仏教書、思想書哲学書を片っ端から読み込んでいきました。

何度も何度も読み込んでも結局答えには到らなかったのだけど、誰にも知られることなく心に抱えている物を何とかしたかった。

幼い頃からどうして私はここにいる?何のために生まれて来た?

納得いく答えが出るまでにはまだかなりの年月を必要とします。

それを思い出す時、忘れる時を交互に繰り返しながら。

 

 

 

思い出した

書きながらも忘れている事が結構あって時系列が狂っていきそうで我ながら笑う。

エピソード的に書いた方がいいのかなぁ?

この前「あ、そういえば」で思い出したのが叔父が家で暴れていた事。

私達家族が別居の形で家を出ていて、跡取りが出たという事で慌てて祖父が叔父を呼び戻していた。

今もあるのか知らないが、うちの地元では長男以外外に出されるって良くあった事なのです。

だから東京に出る新潟県民の比率はとっても高い。

それで叔父は全部ゼロにして帰って来た訳ですが、その後離婚した私達家族が入る事になってしまったのです。

父が私達姉妹を引き取ったものの父には子育て出来ません。

養子に欲しいといくつも話が来ていたそうだけど手放す事はしませんでした。

でも、それが原因でその後叔父は家の中で暴れてしまうことになったのです。

きっとね叔父も頼られて嬉しい気持ちもあったのではないかと思うんですよ。

祖母の事だから何かにつけ比較して育てていたんじゃないかなって思うので。

 

その頃は私もまだ保育園かその位で、暴れる叔父と泣き叫ぶ祖母とうろたえる祖父を見ながら、小さな妹をかばうような形で背後に隠し、正面向いて立ちはだかって何とかやり過ごしていたように記憶する。

怖くて動けないから逃げられなくてそれが精いっぱいで、誰も助けに来てくれなくておびえていた頃。

それがどれだけ続いたのか記憶にはもうなく、ただそれだけが鮮明に。

 

そういう時期が過ぎた後はお酒を飲む叔父に捕まっては絡まれるようになり、とにかくいつも責められていました。それは親戚の集まりでも同様だった。

叔母の夫、伯父も酔うと絡み始めるのでじっと正座したまま理解出来ない説教を聞かされ続けた。

従兄弟などもたくさん集まるのでついつい行ってしまうと捕まって動けなくなる。

そういう場に居合わさないように部屋にこもるようになれたのは中学の頃だった。

 

それからは大声を出す男の人が怖かったし、お酒を飲む人がとにかくダメになっていた。

特にお酒を飲む人は人にあらずとも思っていた。

だから付き合う人、結婚した人は大体穏やかでお酒を飲まない人が多かった。

 

今はお酒に飲まれない人なら大丈夫になったので、ずいぶん成長した物だと思う。

超絶下戸なので飲まないけれど、気を移し取れるので飲まなくても酔える自信はある(笑)

後は大声を聞いてもパニック発作が起きなくなったので大丈夫なのだと思う。

最後のパニック発作は7年前の1回だけなので。

 

続いて、中学生時代は安泰だった方かなって思っていたけど、あった。

それにしても長く続きそうな過去の回想ですこと。

 

 

 

 

 

続き。

私が育った家はその集落の元庄屋、総本家の家でした。

海までの数十キロの川の権利を持って運輸関係の仕事をしていたようです。

その跡取りが私です。

もう没落寸前であるところを見ると、この家系を閉じる役割を持っているのかなと思います。

母が居なくなったので実質私を育てたのが大正生まれの祖母でした。

口を開けば「人を見たら泥棒と思え」ってマジで言っておりました。

この半径1キロにも満たない集落が世界の全ての人。

私の見立てだとボーダー気質なんですよね。

切れると何をするか分かんないし、とにかく劣等感や罪悪感を植え付けて支配する人でした。

素直な良い祖母と悪い祖母のギャップがありすぎました(笑)

本人も60過ぎての子育てで大変だったと思います。

 

 

 

小学生くらいの頃は人とコミュニケーションを取るのと、集団行動がとにかく苦手でした。

いじめにあう事もあったけど、今ほど酷くは無かったと思う。

いじめる側もしたけれどそういうのはあまり好きじゃなかった。

保育園時代に比べると人が怖くてびびったり泣いたりという事は減りましたが、理由が分からないまま怒られる事は多かったです。

自由勉強で漫画のキャラクターを書いて怒られるとか、決まりが守れずいつもみんなとはぐれてしまうので自分勝手な行動はしないと宣言させられたりとか。

あと、現実逃避なのか空想なのか良く嘘をついていました。

水の上に立てると言って井戸に落ちたりとか、たまに変な事をしたり言ったりしていました。

喪失感とか虚無感などが結構あったのかも知れません。

小学生くらいになると人との比較が入って来るので無い物ばかりに目が行っていたのでしょう。

 

 

近しい身内からは可哀そうな子のレッテルをしっかり貼られてしまっていたので、それが自分なんだと思っていました。

ネガティブ思考がより深くなる事ばかりが多かったです。

そうじゃないよと言葉で行動で伝えてくれる人が誰もいなかった。

居たかも知れないけれど小さな脳みそでは理解出来なかったですし、手にした途端こぼれ落ちてしまう。

家ではどうやったら父親の気をひけるか、そればっかりでした。

甘える事も妹のようには出来ませんでした。

妹は私を上回る問題児だったので、どうしてもそっちに手を取られてしまいます。

なのでせめて寝たふりをして抱っこしてもらって一緒に眠るというのが精いっぱいの甘え方でした。

陰鬱な毎日をどうやって明るく過ごしたらいいのかさえ分からない年頃だったので、外に遊びに行く事や何かを得る事、そして恋をすることを覚えて行ったのです。

 

生まれてから

雪国の豪雪地帯で米どころ。山や田畑に囲まれた田舎が私の故郷です。

今居るような山間ではなくもっと平らな所で悠々と大きな川が流れています。

そんな自然豊かな場所で私は生まれました。

お腹の中に宿ってからの両親の結婚。当時では割と珍しい事だったかも。

予定日より2週間ほど過ぎて生まれたは良いけれど、小さ過ぎて2ヵ月ほど保育器の中で過ごしたそうです。

祖母は言ったそうです。

こんな小さい子生みやがって。

 

退院の時母は言ったそうです。

病院に居ればミルクもおむつも全部してもらえるのに。

 

大人は時に残酷です。教えてくれなくてもいいことを。

 

そしてきっかけは分かりませんが両親が実家から離れて暮らしてます。

たぶん、夜泣きがすごかったというので恐らく退院する前後のことではなかろうかと。

私のひどい夜泣きは母にとっては容赦なく浴びせられた暴言の様に思えたのでしょうか?

暴力をふるっていたと父が話していました。

なので泣き始めると父が車に乗せて連れ出していたそうです。

だからか夜のドライブは今でも好きです。なぜか車の振動が落ち着くんです。

 

私は子供の縁が無かったので子育てという物を知りませんが、夜泣きって本当は親孝行の名残りだと聞いた事があります。

胎内にいる時、日中母体が充分に酸素を使えるよう赤ちゃんは大体眠っているそうなんです。

そして夜になって母体が休み始めたら赤ちゃんが酸素を使う。

そうやって変わりばんこに酸素を使っていた名残りが夜泣きだそう。

そう考えると私は生まれながらのいい子なのです。

 

そうして次に妹が生まれ4人家族になりました。

でも私が2歳半の頃、両親が離婚しています。

理由はまた後で述べますが、私が2回目の結婚から離婚に到った経緯と同じものでした。

う~ん、歴史は繰り返す(笑)

そして私と妹は父に引き取られ、小さな滝が落ちるお庭がしつらえられた父の実家に引っ越します。

それからたった1度だけどうして母が居ないかを幼い頃に父に訪ねたそうですが、それ以降母の事を口にする事はなくなったそうです。

そしていつ作ったかもう覚えていませんが心の中にひとつの森を作り、そこに家を建て空想の母親を住まわせていました。

そこが私にとっての聖域の様な物になりました。

でも本当は良くない傾向なんですよね、これ。精神病になりやすい。

山に入ってひとり想像力を使って遊んだり、小川が流れてキラキラしている様をぼーっと眺めたりして過ごしていました。

でもどこにも安心して落ち着ける場所がなかったんだろうなと思います。

私は祖母から見て実の孫とはいえ、嫌いな女の子供。

とにかく母が奔放にいろいろしていたので、本当に父の子か27歳頃まで疑われたままだった事を祖母の告白から知っています。

何度か祖母から「おまえはどこの馬の骨の子だ?!」とじりじり問い詰められていた理由がようやく分かった瞬間でした。

 

理由は分からなくても私は知っていましたよ。

何かがいっぱいになって溢れて辛いんだなと。分かっててもどうしてあげようもなかった。

でも行く場所も無いし、捨てられたら困るのでとにかくここに居るしかないんだなと思っていました。

妹も小さいしお母さんもいないから、どうしてもお母さん代わりにならないといけなかったのです。

いっぱい甘えてくるし、振り回してくるし。

気に入らない事があると出血して青あざが出来る位つねってくるんです。

だから両腕は小さな青あざだらけでした。

 

半生の総決算

去年の今頃、私はひとつの書類を作るのに相当苦労した覚えがあります。

それは職務経歴書

今までそれを書かなきゃならないような所への面接は避けて来ました。

ある時から転居する事が増え、いまで25ヶ所目なのです。

その分、転職する回数も多くて33回近くは繰り返している事になります。

 

これを手書きで、記憶をたどりながら書いていたら6時間ほどかかりました。

書きながら何という苦行だろうと思ったのですが、実際見て分かる形にしたことで「総決算」なのではないかと思ったのです。

ということは会社に雇われるという事がこれで最後ということかなと。←勝手にね。

なので3~5年勤められればまた違う道が開けるかもなと考えていたら、1年経たずに転機が訪れてしまっているのであります。

転機ももう引っ越しの有無に関わらず有り過ぎるので、いったいいつになったら腰を落ち着ける事が出来るのだろうと。

なんだか約束の地でもあるのかな?などと果てしない夢を追うような気持ちで過ごしております。

それだってほんとにどこに向かっているのかまるで分かんない状態です(笑)

友達にはワンダラーじゃないのとか言われますが、分かんないよね~覚えてないよね~。そんなの。

 

今回過去を記録していくのは実は2回目になります。

前回書いていた時は人生の前後を切り変えた直後でしたので昇華しきれなかった気持ちがまだ残っていました。

それから5、6年ほど経ちますが、どれだけ自分の中で手放して行けたかを書きながら確認してみたいと思います。

いろんな事を手放すことで私に帰って来た私と共に。

 

しばらく過去を語ります

だいぶ日が開いたまま下書きだけが増えるブログ(笑)

何を上げようか随分迷っていました

でね、いろいろ考えあぐねて

自身の生い立ちから始めてみようかと思います

1度は記憶から消えてしまった昔の事ですが

思い出し始めた時にはまるで別の人の人生の様で

ぽかんとした事を覚えています

 

読まれる時には感情を入れないようにお願いします

今夜はもう遅いので予告として記事を置いて行きます

目の下のクマがさらに黒くなりそうなので(笑)

年明けより

年末近くなるといつも次の年に何をするかを決めている。

決めていても大体違う方に向かうのだけど、何年経っても懲りずに決めてしまう。

今年は去年からはまったソロ車中泊を進化させようと、サバイバルキャンプのスキルを身につけようと考えていたのです。

数年前から孤独というものと向き合い続けていて、いかに自分で自分を楽しませるかに重点を置いて遊んでいました。

だからその延長で行くものと思っていました。

 

だけど2月位に風向きが変わり始めたんですよね。

よくある転機のお知らせみたいな、哀愁を含んだ風が。

 

それが何なのか分からないまま日々が過ぎた時、ふと思い出したのが佐藤初女さんのことでした。

ja.wikipedia.org

それと同時に私の名前の由来である大石順教尼のことも。

ja.wikipedia.org

 

もうかなり前になるけれど精神的、肉体的に限界で行き場も無くて困った時に迎え入れが出来るような場所が欲しいなと考えていたのです。

ただのかけがえのない命として迎えてもらえる場所。

そして来た人に充分な休息と癒し、自然に気力が湧く食事を出せたらなって。

 

ただこれは人を助けたいというより、1番辛かった時に自分に与えてあげたかった場所なんです。

今はもう自分には必要ないけれど、こういう場所を必要とする人がいるならばと思っています。

すぐには叶わないことは分かるので遠い所に目標として置いています。

それまでにもっと世の中が明るく変わるなら、必要ないのでまた違う物になると思います。

 

話はそれましたが他に同じ様な事をしている人がいないか調べていたら佐藤さんの森のイスキアに辿り着いたのです。

ただ当時も変わらず人生荒波サーフィン中でお会いする事叶わずでしたが、当時の活動を支え、今なおその活動をされているご夫妻がおられるので、今だ!とばかりにお話をしに福岡まで行きました。

それが6月のことでした。

その時にまずは実績を作りましょうという話になり、離れていたスピリチュアルの世界に再び足を踏み込んだのです。

 

あー。結局引き戻されちゃうんだぁ。って思いましたね(笑)

結局そこかい(笑)

 

ここ何年も人払いをして情報も一切遮断して自然の中で自分の感覚だけで過ごしていただけに、人とかかわる事が怖くて仕方がありませんでした(笑)

知らない人に会うとかコメント入れるとか勇気振り絞ってます(笑)

テンションが変です(当社比)

 

幼少期も人間が怖くて泣いたり固まったりしていたので、もしかしたらまた子供返りしているのかも知れません。

人曰く、怪しさはありますが1度魂が赤ちゃんに戻ったそうなのです。

 

また続きます。